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説教要約

水そして聖霊によるバプテスマ

説教:金知明伝道師

マタイによる福音書3章13-17節

なぜイエスキリストは洗礼を受ける必要があったのか?

イエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けて公的活動を開始されました。人々を救う形には色々あります(中国の儒教的道徳、インドの仏教的悟り、アラブ・イスラム教のアラー神への絶対的服従、など)がイエスキリストはいわば川で溺れている人を自ら飛び込んで助けたわけです。「神のかたちであられたが、・・・僕のかたちをとり、人間の姿になって・・・死に至るまで従順であられ・・・」(ビリビ2:6-8)人を(私たちを)救ったのです。そして僕の姿を恥と思うどころか、「実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている」ことをご存知のゆえ、人を「兄弟と呼ぶことを恥とされ」ませんでした(ヘブル2:11)。

洗礼とは何か?

洗礼(バプテスマ・バプティーゾ・浸す)は人生の転機。わたしたちは、キリストの「死にあずかるバプテスマを受け・・・彼と共に葬られ・・・キリストが・・・よみがえさせられたように、私達もまた、新しいいのちに生きる・・・罪から解放され・・・死はもはや支配しない」(ロマ書6:3-11)のです。私たちはイエスキリストを信じたその時、聖霊を通してキリストの体の分枝とされました。神霊である聖霊が私たち一人一人の中に生きて私たちの日常の信仰を助け、励まし、支え、導いてくださるのです。それは、人生のあの一度きりではなく、日曜日だけでなく、日々、いや日々だけでもなく1秒1秒毎に、神に守られ、導かれ、強められ、支えられる、そのような生活を感謝をもって歩むことができます。私たちは神の国の大使として福音を伝える歩みの中でたとえ私たちにとって苦手と思うことや辛いことがあっても、そのことを通して神様が共にいてくださることを私たち一人一人に教えるのです。

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