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説教要約

「人を生かす神」詩篇23篇3節

説教・金知明伝道師

主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。詩篇 23:3 口語訳


皆さん、こんにちは。これまでこの詩篇23編の御言を一緒に見てきました。1節では「主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。」という御言から、私たちの良き牧者であるイエス・キリストは、神の言葉をもって私たちを養ってくださる。私たちの霊は、今日も御言葉によって強められ、守られ、慰められ、目の前の状況から救い出される。あなたの命を造られたその方が、今あなたに心を留めておられる。主はあなたの羊飼いであって、あなたはその方がともにおられる故に、乏しいことがない。という内容でした。
23編2節では、「主はわたしを緑の牧場に伏させ、 いこいのみぎわに伴われる。」という御言から、わたしたちの努力や力で得られる糧ではなく、わたしたちに神様が与えてくださる御言に生きる者とされること。主が導き、伴ってくださるのは、私たちの疲れを癒し、私たちの渇きを満たす水が豊かにある、いこいの水のほとりなのですということを分かち合いました。
今日は詩篇23編の3節です。聖書をお読みします。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。詩篇 23:3 口語訳
私たちの頭は普段聞き慣れているものは素早く情報として取り入れることができますが、聞き慣れないもの、日常生活からかけ離れた遠くにあるものほどイメージしにくく、実感のわかないものとなります。それは母国語であっても同じだと言えます。普段から慣れない言葉は、その言葉の中にある深みと広がりが半減されるどころか、文章全体の意味合いを薄いものとしてしまい、奥行きのないものに変えてしまいます。オリジナルそのものの良さがなくなってしまうだけではなく、それはもはや本来の意味を持つオリジナルでは無くなってしまうのです。
私は20代前半を東京で過ごしました。そのとき、教会に来ていた4歳の男の子にバリバリの関西弁で話しかけてみました。その子は東京で生まれ、そして東京で育った男の子です。最初は「これ何?」とか「すごいね~」「ちょっとそのペン取ってくれない?ありがとう」といった感じで会話を交わしていたのですが、タイミングを見て急に「ちょっと寒いからその扉閉めて~や」と言ってみたんです。すると男の子は私の顔を見つめたまま2、3秒動かなくなりました。そして何事もなかったかのように自分がやっていたことをまた始めたのです。男の子はあまり聞いたことのない関西弁に反応を示さないだけではなく、おそらく言葉として聞き取れなかったのでは無いかと思います。私は「聞こえなかったのかな?」と思って、2、3こと普通に会話をした後もう一度やってみました。「ごめん、ちょーそこの新聞取ってくれへん?」
2度目の彼の反応は、全くの無反応でした。自分の手を止めることなく私が話しかける関西弁にはまるで何にも言われてないかのようになにも反応しなかったのです。お母さんのお腹の中にいる時から数えて4、5年の間、おそらく彼の中で関西弁というものにあまり触れて来なかったのかもしれません。意味のわからない言葉、まるでただの物音のように聞こえたのでしょうか。
神の御言葉であるこの聖書にも同じことが言えます。御言葉は外国語でもなければ、何かの物音でもありません。私たちの母国語、神様がこの日本という国に与えてくださったこの日本語を通して私たちに伝えられているのにもかかわらず、まるでいかにも難しい外国の言葉のように、意味ある言葉と理解しがたい、ただの物音であるかのように聞き流してしまう事はないでしょうか。耳に触れていたらどことなく落ち着く癒しのbgmでしょうか。また毎日のように御言葉を読み、触れている方にとっては、当たり前で新鮮みがなくスーッと聞き流してしまっているかもしれません。私たちがどのように向き合うかによって、御言葉にある深みが変わります。神様が私たちに語られる御言をオリジナル本来の意味を失わず、私たちがいつも心すまして聞くことができたら、どれほど素晴らしいでしょうか。
この詩篇23編は皆さんもご存知のように羊を守り導く良い羊飼いと、羊が出てきます。神と人との関係を羊飼いと羊にたとえているのです。
「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。(口語訳)」ここに出てくる“いきかえらせ”という言葉は、旧約聖書この詩篇の記された言語、ヘブライ語では“イェショベブ(生き返らせる)”という言葉が使われています。この言葉は“生き返らせる”という意味の他に“悔い改め”や“反省”“省みる”といった言葉に置き換える事ができます。この“イェショベブ”という同じ言葉が出てくる詩篇60:1を見ると、新共同訳では「神よ、あなたは我らを突き放し/怒って我らを散らされた。どうか我らを立ち帰らせてください。(詩編 60:1)」とあります。また口語訳では「神よ、あなたはわれらを捨て、われらを打ち破られました。あなたは憤られました。再びわれらをかえしてください。(詩篇 60:1)」と訳されています。それぞれ“立ち帰らせる” “かえす” という言葉に訳されています。
この“イェショベブ(生き返らせる)”という言葉には、霊的な更生すなわち、好き勝手に道をそれた羊を再び安全な場所へと連れ戻す、そのような意味が含まれています。私の魂を生き返らせてくださるというのは身体的な部分だけではなく、私たちの霊をもあなたによって新しくされると聖書は語るのです。“生き返らせる”ことが出来るのは、今生きているものではなく今死んでいるものに対して言える言葉です。主は私の死んでいる魂を生き返らせられると言うのです。羊は窪みに躓くと自力で起き上がれません。焦ってジタバタすればするほど、体力だけが奪われていきます。躓き倒れた羊は外敵の絶好な獲物となります。その状況は、羊にとってまさに心も体も死に直面した最悪の事態となるのです。
私たちの人生に最悪の事態はどれほど訪れるものでしょうか。問題を乗り越え、時間が経った後となって考えてみると、少しは客観的にまた落ち着いて物事を考えることができるかもしれません。でも問題に直面しているその状況の真っ只中にいる時は、自分の力ではどうすることもできない、そんな絶望的で解決の見えない最悪の事態を迎えるのです。1ヶ月前、2週間ほど前、いや昨日、今朝起きて最悪の事態を迎えた人もいるかも知れません。私たちは人生においてそんな状況を何度も何度も経験しているのです。
羊は躓き仰向けに転がると、起き上がろうと狂ったように必死でもがきます。倒れた羊はもがいているうちに、ガスがお腹に溜まり、それが膨張すると足への血のめぐりが悪くなります。そのままの状態が続くと数日の間に、また暑くて日差しが強く早い時は、2、3時間で死に至ることもあり得ます。外敵から狙われるのを防ぐためにも羊飼いはすぐに駆け寄り、羊の体を支え、起こさなければなりません。
◆イエスは私たちの躓きを知っているこの聖書を見ると、イエス様はたくさんの羊を起こされました。目の前の窪みに怯んで躓いてしまった者、居心地の良い野原に気持ちよく寝そべっているうちに起き上がれなくなった者、自分の持っているものが豊かになりすぎて体が重く倒れてしまった者。いろんな状況で死に直面している羊に駆け寄り、羊を生き返らせられたのです。
その中には自分が今死に直面していることにさえ気付かずにいる羊もいたことでしょう。いつ死んでもおかしくない、いやすでに周りから見ると死んだかと思われていた羊もいたはずです。羊飼いの救いの手を拒み、外敵の餌食になった羊もいたのではないでしょうか。ヨハネによる福音書10:10でイエス様は「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。(口語訳)」と言われました。羊がいのちをより豊かに得られるよう、そのためにイエス様は来られたと言うのです。
◆御名のために義の道に導く私たちは羊のように、いつも自分の頭で把握できる同じ道を歩きたがります。今まで得てきた知識や経験をもとに、最善だと思える道に自分自身を導くのです。いつもの道を進み、いつもの草を食べ、いつもの風景を眺めながら歩む。自分のイメージ、想定した世界に住むことで安心を覚えます。そして、いつの間にか周りの草を食べ尽くし、習慣的に出来上がった轍、その溝から抜け出せなくなるのです。
イエス様はいつも自分の道を歩む人に天国への道を教え、神の国の真理を教えられました。轍から抜け出せなくなっている人、溝に躓き起き上がれない人を救い、いのちを与えられました。私たちがどれほど素直でいられるか、どれほど立派に歩めるのか、そんなことに今日の御言葉は一切触れていません。これは私たちの罪を教える律法ではなく、私たちの足りなさを十字架の業によって、神からの一方的な恵みによって満たされる福音なのです。この御言葉の最初も最後もメッセージは“主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる”と主が成されることにだけ焦点が当てられているのです。
神様が私たちを羊とされ、神様が私たちを養われているということは常に覚えておかなければなりません。それは私たちから発したものではなく、私たちが求めるはるかに前から神様が決めておられたことなのです。私たちの努力で、頑張って歩むのではなく、神のその名を裏切ることない歩みを、私たちは導かれる方を信頼し、導きを委ねるのです。ダビデは自分で自分の人生を導くのではなく、絶対的信頼を置くことのできる羊飼いなる神様に、自分の人生は導かれるものであることを悟り、この詩篇23篇を記しました。
人が無力な存在である事を神様はご存知です。しかし人は心のどこかで自分の力を自分の経験を信じて、それらを先頭に掲げて人生を歩みます。創世記アダムのときから今の私たちに至るまで、人はいつの時代もみんな同じです。この聖書が語るのは、何千年も前に生きた人たちと何一つ変わらない、今ここにいる私たちへの語りかけでもあるのです。
私たちは何かにつけて相手に粗相のないように、失礼にならないようにと、そんな思いを誰もが持っています。心のどこかで神様に対してもそのような思いを抱いているのではないでしょうか。もし、神様に対してもまず何か行いで示さなければならない、そのような思いの中にいるのなら私たちは今日新しい朝、新しいいのちを与えられているのにも関わらず、自分や相手を裁いて罪に定める律法の中にいるのです。律法は罪を教えますが、人を生かすことはできません。ただ1人、神の子イエスキリストが十字架で流された血潮によって私たちは贖われ、新しいいのちを与えられ、今日も生かされているのです。
「主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」私たちがよく知っているこの御言葉は、本来の意味を持つ御言葉として私たちの心に息づいていますでしょうか。私たちに罪を教え、その代わりとなる犠牲を要求してとりなしを命じる律法に留まり続けるのではなく、イエス・キリストの十字架の贖いによって示された神の恵みの福音として、御言が私たちの日常に息づいていますでしょうか。
今日も主は私たちとともに歩んでくださっています。それは私たちが頑張ろうとしている、一所懸命になっているその行いや心に抱く思いに感心し、感動されたからではありません。それはとってもわかりやすく、この聖書を通して私たちに教えられています。それは神様が羊飼いであり、私たちが羊だからです。神様が導く方であり、私たちが導かれる存在であるから、今日も主は私たちとともに歩んでくださっているのです。福音はあなたを生かします。主は今日もあなたの魂をいきかえらせ、み名のためにあなたを正しい道に導かれる。のです。

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