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説教要約

マカン・アンイン(息吹をいただく)

説教・金知明伝道師

「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。」ヨハネによる福音書6章57節 口語訳

讃美:何ゆえ御神は(新聖歌357番)

説教

インドネシアの言葉に「マカン・アンイン」という言葉があります。今日のみ言葉を聞くとこの言葉を思い出すのです。日本語にすると「散歩する」という意味です。ただ、ふらふら歩くというよりは、「気晴らしに出る」というような意味です。どこの国にもあるような言葉だと思います。韓国語で「気晴らしに出る」は「パラメルセイダ」、直訳すると「風にあたる」「風を浴びる」を意味する言葉です。わたしたちが日本語で普段使う「気晴らしに出る」という言葉とは、また少し違った意味合いということができます。インドネシア語の「マカン・アンイン」のマカンは食べる、そしてアンインは風を意味します。「風を食べる」と直訳することができるのです。わたしたちが普段なにげなく使っている言葉が他の国の言葉になると、「風を浴びる」「風を食べる」と言われるのをみると、面白いなと感じるのです。気分転換、心がリフレッシュされることを想像すると、気を晴らす以外、風を浴びる、風を食べる、といった言葉も悪くないように思えるのですね。

今日の聖書の箇所でイエス様がこのように語られたのです、「生きておられる父が、私をおつかわしになり、また、わたしが父にあって生きているように、わたしを食べる物もわたしによって生きる」。イエス様は「私はわたしをおつかわしになった命なる神の力によって生きているのだよ」。同じように「私を食べる人は、私によって生きるのだよ」と、言われているのです。

イエス様がここで語る「神の力によって生きている」ということは、どう言うことでしょうか?そして、イエス様を食べる人はイエス様によって生きるというのは一体どういうことなのでしょうか?

ヨハネの福音書6章の初めのところには食べ物の話がでてきます。これは、少年がもっていた五つのパンと二匹の魚で5千人の人が望むだけ食べたという話です。イエス様がなされた神力の印を見た人々はイエス様のもとに押し寄せますが、その群衆を避けてイエス様は一人山に退かれたのです。16節からみると、弟子たちが湖畔に降りて行き湖に船を出す場面が出てきます。強い風が吹き荒れ、湖が荒れています。恐れ始める弟子たちの前にイエス様が水の上を歩いてこられたのです。弟子たちは安心してイエス様と向こう岸に渡っていきました。するとまたイエス様を探しに群衆が近寄ってきたのです。群衆はイエス様にこう言います、「イエス様、いつ、ここにこられたのですか?」するとそんな彼らにイエス様は言われたのです、「あなたがたが私を探しているのはしるしを見たからではなくてパンを食べて満足したからでしょう。なくなってしまう食べ物ではなくて、永遠の命に到る食べ物のために働きなさい」。「そしてその永遠の命のために神が私をお使わしになったことを信じなさい」。このイエス様の言葉を聞いて群衆たちはこう言います、「モーセは天からのパンを与えてくれました。わたしたちが、イエス様、あなたを信じられるようにあなたは私たちになにをしてくださいますか?」するとイエス様は、その天からのパンをあなたがたにあたえたのはモーセではなくて、父なる神であることを群衆に教えられます。そして、その天からのパンを求める彼らに、ご自身が命のパンであることを教えられます。

今日の聖書は、イエスキリストこそ救いであり、キリスト者の命の源であると言います。イエス様はそのことを、父なる神と御自分との関係に重ねて語れました。神がお使わしになった御自身こそ、永遠の命に至るパンであると語られました。神への恵みと救いへの招きは、この人、この人、というように、あらかじめ誰か、定められた人へのものではないのです。なにかの決められた条件をクリアした者たちへのものでもないのです。神の恵みと救いへの招きは、イエスキリストの元に来て信じる全ての人に向けられている確かな真理なのですそれは、ただ一つ、イエスキリストが私たちの罪を負ってくださった十字架から来ます。なによりも先ず、神が私たちにイエスキリストによって救いをもたらせたのです。その始まりがあってからこそ、そこから私たちの内に信仰や悔い改めが生まれるのです。私たちは、聖餐式でパンとぶどう酒を手にする度に、私たちの内にイエスキリストにある永遠の命があることを覚え、感謝します。主権的な救いの恵みによる神のご計画のその中心点が、イエスキリストの十字架であることを私たちは心に刻み、そこで感じた救いの喜びを伝えて行くのです。

私は今朝、おにぎりを食べました。白いコメと海苔、梅干しが、おにぎりという食べ物を通して私の体の中に入っていき、その中にある栄養がこの体の中で活性化、生かされていくのです。冒頭で、風を食べるという言葉を皆さんと一緒に見ましたけれども、風は実際に食べるとどうなるのでしょうか?体内に酸素を取り入れることで、気持ちが、精神的にだけではなくて、脳の中がすっきりするでしょう。

イエス様は、わたしたちにとってどのようなお方でしょうか?私たちの霊に命のパンなるイエスキリストを食べるということは、私たちの霊に命が吹き込まれるということです。その昔、最初に造られた人、アダムに神の息吹が吹き込まれたように、イエスキリストによって私たちの霊に神の力がみなぎるのです。生きておられる父が、私とお使わしになり、また、私が父によって生きるように、私を食べるものも私によって生きる。私たちの救い主、永遠の命にいたるパンであるイエスキリストによって、今日一日を生かされている喜びを十分に味わう、そんな日となりますように。・・・アーメン

讃美:こころみの世にあれど(賛美歌358番)

祈り

わたしたちの日常に今日も生きて働かれる父なる神様、
イエス様を通して表されているあなた愛を思い、いまここで改めて感謝いたします。
あなたの御言葉によって、愛によって、私たちの霊に、今日もあなたの息吹が吹き込まれ、
今日この礼拝に集い、御言葉をともにする一人一人の上に神の力がみなぎる一日となりますように。
先週無事に、教会の起工式を終えられたことを感謝いたします。
これからも続く全ての工程・工事があなたによって進められ、守られますように。
委ねて、感謝して、主イエスキリストの御名によってお祈りしいたします。
アーメン

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