ヨハネの第一の手紙 4:7-12(金知明伝道師)
♪「いのちのいずみに」聖歌273番
(1番、2番、間奏、3番)
†聖書/ヨハネの第一の手紙 4:7-12 口語訳
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。
人は限定的なもの、自分だけが持っている優位的なものに誇りを感じます。それを手に入れるためであれば少しくらいの犠牲は苦になりません。もし神様の愛が期間限定的なもの、数量限定的なもの、また条件限定的なものであるのなら、その愛はより魅力的にそして必ず手に入れたいものと感じるかもしれません。
しかしこの聖書が語る神の愛は決して限りのあるものではなく、人々の心に優位的な感情をもたらすためのものでもありません。神の愛は、私たち人間がどれほど汚れた存在であるか、また神様にとって私たちがどれほど愛おしい存在であるかを絶えず私たちに教えています。その限りのない神の愛が、私たちに注がれ、私たちの生活を通して隣人(日常的に接する人)へ流れていく時、限りのあるものとして変わってはいないでしょうか。
◆聖書に見る2つの愛
聖書を見ると2つの愛が出てきます。それは日本語に訳される前の聖書、ギリシア語で見ると φιλία(フィリア、隣人愛、精神的)と、 αγάπη(アガペ、自己犠牲的な愛、霊的) という言葉です。今日のこのヨハネの第一の手紙4:7-12に出てくる“愛”という言葉は、すべて αγάπη(アガペ)という言葉の方が使用されています。
これは人が想像する「これだけしていただいたのだから私たちもこれぐらいはしなければ」というような常識や礼儀の伴う条件的な愛ではありません。私たちの想像を超えた、常識では考えることもできない愛。神が私たちのためにイエス・キリストをこの世に送り、十字架で払われた犠牲は、今までにない、またこれからもありえないほどの贈り物でした。まさに神ご自身が愛のお方であられるゆえになされたことです。私たちのこの言葉ではとうてい表し切ることのできない、表現しきれないほどの出来事なのです。
ヨハネによる福音書21章後半に出てくるイエス様とシモン・ペテロの会話では、イエス様が「あなたは私を愛しているか」と尋ねられます。するとシモン・ペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるのです。イエス様の言葉も、シモン・ペテロの言葉も日本語では同じ“愛”ですが、その箇所をよく見てみますと、イエス様がαγάπη(アガペ)という言葉の方で聞いているのに対して、シモン・ペテロはφιλία(フィリア)という言葉の方で答えているのです。そんな質問と答えが2回続きました。
イエス様は3回目に聞かれるとき、シモン・ペテロの言ったφιλία(フィリア)という言葉の方で「あなたは私を愛しているか」と尋ねます。シモン・ペテロが同じように3回目も φιλία(フィリア)という言葉の方で「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるのです。ここで私たちが知るべきことは、人が想像する愛の形と、神から出る愛は、決して全く同じ物ではないということです。条件があり、量も数も限られている愛と、犠牲の伴う常識をこえた愛には違いがあります。
◆私たちを通して流れ出る愛
私たちに神の愛をすべて理解することはできません。しかし、愛のお方であられる神ご自身が、御霊によって私たちの内にともにおられることによって、神ご自身の本質であるその愛が、私たちを通して顕されるのです。
神の愛は私たちがすべて受け止めきれるそんなものではありません。私たちが思うよりもずっとずっと広く深く大きいもの。その愛は、私たちを常に覆い守り、この体全体を十分に浸しきるほど深く、潤いのあるものです。私たちが受け止めきれず、いろんな所から流れ出てしまうその愛は、私たちの周りの環境そして周りの人々へと染み込み流れていき、少しずつ伝わっていくのです。
◆私たちが塞き止めてはいけない
イエス様の働きは気の合う友人、無難な関係を保てる知人、仲の良い兄弟家族に限定するものではありませんでした。それどころか見返りを求めることのない一方的な無償の愛は、当時の社会的弱者、そして敵とも思われる悪人、どうしようもない罪人に向けられたのです。神が愛の業をなされたということは、どういうことでしょうか。愛である神が一人一人の人生に、一人一人の日常に寄り添われたのです。
愛を、施す業のひとつと考えるのでしたら、「この人にはこれくらいの愛を」「今こんな状況だからこれだけやれば十分だ」とそのときの状況や感情によって愛の大きさが決まってしまうでしょう。神との交わりを塞(せ)きとめる原因となっていた、罪にまみれた私たち、恵みに値しないこの罪人に代わって、神が御子イエス・キリストを通して私たちの人生に触れてくださいました。
それは私たちの罪を十字架という犠牲で命をかけて買い取っただけではなく、イエス・キリストによって私たちに新しい命を得させてくださったのです。本来ならば神の怒りを受けるべき罪人が、本来ならば愛される価値ない罪をもった私たち人間を、神が愛してくださったのは、神が愛のお方であるからです。愛そのものである神が、イエス・キリストを通して顕(あらわ)された愛を、今ご自分の民となった私たちに顕(あらわ)されるのです。
◆なぜ“愛する”ことが求められるのか
聖書の訳によって多少異なりはしますが、今日のこの箇所には“神は愛” “愛は神” “神の愛” というような言葉が重ねて出てきています。すべての節において、“神”と“愛”のつながりが何度も何度も語られています。そこには、一般的に語られる“限りのある愛”とは明らかに違う“限りのない神の愛”が存在するのです。
7節を見ると「互いに愛し合いましょう」と語られています。そして11節には「互いに愛し合うべきです」とあります。12節では「互いに愛し合うなら」とあります。この箇所では互いに愛し合うことを強く勧め、愛し合う事は私たちの義務であり、そして愛し合うならばと続けて語られています。
クリスチャン、聖書の語る神様を心に受け入れて生きる人たちは、なぜ互いに愛することが求められるのでしょうか?それは神ご自身が愛であるということ。そしてその愛である神様が、イエス・キリストによって私たちにその愛を顕(あらわ)されたということ。また、今この瞬間も神は私たちの内に生きておられ、私たちは愛し続けておられるということ。
私たちは限りのない神の愛によって生かされています。人の愛には限界があります。条件があり限りがあるのです。私たちを愛してくださる神の愛。その愛は私たちに新しい命を与え、私たちだけではなく周りの人々をも救い、導く愛なのです。
◆神の愛が通る道
私たちの内に住まわれる神様は、今日あなたにどんな愛のメッセージを語られるでしょうか。あなたのどのような事を通してその愛を周りの人々に伝えようとされていますでしょうか。それはもしかするとあなたが苦手意識と劣等感を感じている、弱い部分を通してかもしれません。またあなたが今まで豊かな経験を積んできた、誰よりも得意とする、あなたの強い部分を通してかもしれません。もしくは、あなたも私も誰も想像をしていなかった方法とタイミングで、神の愛が伝えられるかも知れないのです。今日、注がれる広く深い神の愛に、あなたの心も体もたっぷりと浸され、出会う一人一人、ともに時間を過ごす一人一人にまでその愛が溢れ流れる一日となりますように。
♪「きよいふみはおしえる」聖歌459番
(1番、2番、間奏、3番)
◆祈り
・コロナウイルスから心身の健康が守られるように。
・神の愛が御霊によって私たちの内に住まわれている恵みへの感謝。
・自分自身、周りの人と共にさらに神の愛を味わい楽しみ生きれるように。