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説教要約

安息への招待

マタイによる福音書11章28節(金知明伝道師)

皆さん、こんにちは。今世界中が大変なときですがそのような状況にありながらも、今日こうして聖書のみことばを皆さんと共有することができるこのひとときに感謝します。

まず一曲、讃美を歌いましょう。私たちには、一人の力ではできないこと、一人の心ではできないことがあります。むしろ、一人でできることの方が少ないのかもしれません、そんなとき、私たちには誰かの助けが必要です。支えてくれる人が必要ですし、助けてくれる人が必要です。この讃美は「あなたの悩みを聞いてくれる人がいるよ」「あなたを慰めてくれる人がいるよ」「あなたの心にある負担、その重荷を取ってくれる人がいるよ」という讃美です。聖歌423番「告げよ主に」讃美しましょう。

♪「告げよ主に〜I must tell Jesus〜」聖歌423番
(1番、2番、3番、間奏、4番)

†聖書 マタイによる福音書11章28節
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
口語訳

今日の聖書は、もしかすると皆さんもよく聞いたことのある言葉ではないかと思います。イエス・キリストが、重荷を負っている人、苦労している人に向けて、私のもとに来なさいと招かれています。それは何故かというとあなた方を休ませてあげると言うのです。この言葉を聞くとですね、重荷を負っている人という言葉がいろんなイメージをさせるかもしれません。重い荷物を背負って歩いている人、悲しいことでショックを受けて精神的に気持ちが沈んでいる人、ひどい病気をしている人、何か心配事があって心の中でずっと悩んでいる人。イエス・キリストが、私のもとに来なさい、休ませてあげると招かれている“重荷を負っている人”というのはどんな人のことでしょうか。

先ほどお読みしました11:28本文で言われているのは、たった一度悲しい思いをしたり、疲れたことのある経験者に話されている言葉ではありません。今まで何度も何度も続く疲れや落胆の中にいる人たちへの言葉なんです。そしてこの重荷を負っている人、苦労をしている人という言葉は、聖書が日本語に訳される前の原文の文法をよく見てみると実は、誰かによって重たい荷物を背負わされている人たちを指す言葉でもあるのです。

この言葉の状況をもっとわかりやすく理解するためには、マタイの福音書23章4節から7節を読むと良いでしょう。「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札(きょうふだ)を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、 また、宴会の上座(かみざ)、会堂の上席(じょうせき)を好み、 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。」マタイによる福音書 23:4-7 口語訳

当時の人たちにとって重荷というのは、律法に関する行いのことでした。またイエス・キリストがここで言われている重荷の意味は、儀式的な行為を例えて言われたのです。当時、政治的な圧迫の中で体も心も疲れ、苦しんでいた人たち。儀式的な行いを要求される重荷に、心が押しつぶされそうになっていたのです。目の前の状況が、心の中がごちゃごちゃになって複雑になっていき、大きなストレスとなります。世の中はどんどん楽しいことだけを求めていき、良心や正義感に負けてしまうそんな葛藤の中で揉みくちゃにされながらも、まだなんとか生きている。そんな根本的な人間の姿が、この聖書の時代にもあったのです。

そんな状況は今現代を生きる私たちの日常にも同じようにあります。何一つ変わらないのは私たちに向かう神様の愛だけではなくて、当時の人たちを取り巻く状況も今ここに生きる私たちと共通する部分があるのです。そんな彼らに、そしてそんな世界に生きる私たちにイエス・キリストは語られました。「重荷を負っている人、苦しんでいる人は私のもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます」と。

11:28の直訳はですね、そうすれば私があなたたちを休めるようにするという意味です。霊的な休息を与える、安息できるようにするという意味なんです。当時、仕事からの休息と神様への礼拝のために取り分けられていたその安息日が、かえって彼らが安息することのできないもの、いろいろな儀式的な行いを要求される重荷となっていたんです。そんな彼らにイエス・キリストは最高のプレゼント、本当の安息と休みを与えると約束されたのでした。

ここで誤解をしないように注意をしていただきたいのは、決して律法自体が重荷だったのではないということです。聖書を見ると、その昔、神様がイスラエル民族を選ばれて与えられたその律法は、敬虔なイスラエル民族にとって楽しみでした。そのことは詩篇119編を始め、聖書のいろんなところで知ることができます。彼らは純粋に神の律法を守り、熱心に人たちにも強く勧めました。しかしその中に、細かいところまで決めてそれを守ろうとしすぎて、愛やあわれみを貫くことよりも、儀式的に細かい点まで守ることを重要と考える人たちが出てきたのです。イエス・キリストは彼らの、純粋に律法を守ろうとする姿を批判したわけではありません。神に仕える思いが、いつの間にか律法が要求することを定義付け、それを守り行うことが人々にとって重荷となってしまっている現状を指摘されました。

人は誰一人例外なく誰でも神の前に立つ時、自分の限界を知ります。人間の盲目的な自己愛は考えられないくらい、実は大きなものなんです。神の創造物を目の前に見ながらも、神に栄光を返すことを覚えるのではなく、かえって自分たちの合理性と知識を誇るために学識的な美しく飾り付けられた言葉を並べるのです。そして自分たちのわずかな知識を基準にして、自分たちの頭では理解できない神の神秘は全て取り除きます。理解できる、納得できる知識の塔を積み上げ始めます。まるで、自分たちのために天に届くまで塔を高く積み上げ、自分たちの名を知らせるバベルの塔(創世記11章4節)のようなことが、私たちの日常にも日々起きているのではないでしょうか。

神と本当の意味で出会うとき、私たちのそのような心は崩れていきます。罪人であり、神に造られたものである自分自身の限界を明らかに教えられるからです。自分よりもさらに大きな、力ある神様の前に自分自身を誇るということが、どれほど恥ずかしいことなのかということを知るからです。

続く11章の29節、30節を見るとですね、イエス・キリストが「 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い。わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイによる福音書 11:29-30 口語訳)と言われます。

私のくびき、私の重荷とは、キリストの教訓と恵みを指しています。私たちから出る何かではなく、キリストの恵みと助けによるからこそ、救いの確信に至ることが易しいという意味なんです。この世の道徳や律法を通して自力で救いを得ることはできません。忠実に守られてきた613にもなる伝統的律法や善い行いでは救いには至らないのです。本質を失った行いや儀式は、救いを保障する何ものにもなりません。パウロはローマ人への手紙10章4節で「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」(ローマ人への手紙 10:4 口語訳) と語っています。イエス・キリストによって恵みと救いの新たな時代が明けられています。みことばに生かされ、恵みに満たされ、イエス・キリストの送られた助け主なる聖霊にあって、喜びを味わう日々となりますように。イエス・キリストが価なく与える安息の恵みが、皆さんの日々に豊かにありますように。

ある伝道者が言いました。「魂の安息、これは人生を歩むひどく疲れた人が望み、追求する目標である」と。今日も安息に飢え渇く人々に主が言われます。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」永遠の安息。この招きに応え、主の前に出て行き、まことのそして永遠なる安息を味わいましょう。

イエス・キリストはこの世で疲れた私たちを本当の安息に導かれます。日が沈み、夜になり寝床に横になっても重い日々の重荷を心の中から取り去ることができず、苦しみの中で辛さを隠しながら過ごしている現代の人にとってイエス・キリストのこの言葉は、命の水となり命のことばとなるでしょう。私たちがどんなに最善を尽くしても、この世界では大きな失望と虚しさが押し寄せる時があります。そんなとき、私たちの心と体はさらに疲れを覚えるでしょう。しかし、覚えていてください、忘れないでいてください。神の給う恵みと助けの中で「私と一緒に安息を楽しもう」と今日もあなたを招いておられる方がいることを。

♪「悩める人々〜Take the name of Jesus with you〜」聖歌431番
(1番、2番、3番、間奏、4番)

祈り
・コロナへの恐れ、悲しみ、ストレスから守られるように。
・各分野従事者への感謝と励まし
・心身困難な状況の時期にも、相手を理解し自分のように愛することができるように。

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