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説教要約

聖霊があなたのなにを助けるのか

使徒行伝10章11-16節(金知明伝道師)

「すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。」使徒行伝10章11-16節

今日はペンテコステ、日本語では聖霊降臨節といわれます。これは、イエス様が十字架につけられ、葬られ、三日目に蘇り、天に上ったあと、その十字架の日から50日目にあたります。集まってお祈りしていた弟子たちの輪の中にイエス様が約束された聖霊が降った日です。

「聖霊」について語られている聖書の箇所;

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」

ヨハネによる福音書14:16

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」

ヨハネによる福音書14:26

「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。」

ヨハネによる福音書15:26

今日は聖霊がなんであるか、一体私たちの何を助けるのか、改めて考えていきたいと思います。

ここのところの背景を見ていきましょう。主の復活、昇天後の弟子たちが活躍している時です。弟子たちの活躍を見て宗教指導者たちが危機を感じいる程の時でした。使徒行伝10章1節以下に紹介されているコルネリオはローマ軍の中の長で権限があり、信頼されている人でした。また信心深い人でした。しかし、この時代のユダヤ人たちはこれら異邦人は救いから外れていると考えていました。ユダヤ人としての割礼、モーセの約束を受けていない、と考えていました。ペテロもユダヤ人としての伝統の中にある人でした。9節以下、伝道旅行中のペテロは昼の祈りの時、幻(霊的無我の状態:ἔκστασις エクスタシス)を見ます。ここで、聖霊は神様はユダヤ人だけのものではないと教えています。この啓示はペテロにとって、そして使徒たちにとって革新的なものでした。

旧約聖書のレビ記11章にはイスラエルの民に対する捧げ物に関する指示がありました。その中では捧げ物や食用の動物を区別(「差別」)していました。ユダヤ人はこの指示を含め割礼などトラー(律法)を守る、守らないによって人々を「差別」していました。ユダヤ人ではない人々には救いはもたらされていないと誰もが考えていました。

そんな状況にも関わらず、救いを求める異邦人のために神の御使との出会が起きたシーンです。ユダヤ人であるペテロにとって想像できない驚くべき出来事だったのです。聖霊によって神様は語りかけたのです。それまでの習慣を打ち破る命令をされているというところです。ペテロの中には混沌として様々な思いが起こったのでしょう。「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」と答えるペテロ。今まで忠実に守ってきた掟と聖霊からの幻の間でなにを考えたのでしょう。「食肉の清いもの清くないものの区別が取り除かれたのかな」、「旧約の律法は絶対的なものではなかったのかな」

そんなペテロに対して神様は、「一体だれが万物に対しての決定権をもつのか」ということを改めて、ペテロに分かるように教えられたのです。「神が清いと言ったものをあなたが清くないと言ってはならない」。神はペテロの中に根付いてしまった概念から解放されます。核心の種を彼の心に植えつえられたのです。

私は幼い頃から教会に通っていますが、色々とぶつかる出来事もあり、必ずしもいつも平安や幸せばかりではありませんでした。自分の目の前に起こる問題をどう受け止めて、どう解決すればいいのか?

このような時、助け主としての聖霊の力をなによりも求める必要があります。今日の本文の後の箇所に、ペテロがコルネリオに語った後に聖霊の働きを見ることになります。その中で、ペテロが神様によって示されたことに改めて気付かさる。それは彼の持っていた概念を打ち崩す、痛みを伴ったものだったかもしれません。

今まで与えられたものと、今与えられたものは少し違うことがあります。私は、今まで音楽に触れて育って、音楽をもって主に使えたいとずっと祈っていました。しかし、そんな中で度々、世界でそして日本の中での牧会者・働き人の不足を考えさせられる機会を与えられました。私は音楽を通して、というよりも音楽も通して、御言葉を伝えていきたいという思いに気づかされました。つまり音楽のために生きるというのではなく、音楽は神様に使える一つの方法である、そう考えるようになったと言うことです。写真を撮る時に一歩下がることによって視野が広がり、今まで見えていなかった景色が見えてくる。いままでの知識や技術がじゃまになって与えてくださった神様が見えなくなっていた。しかし、今まで見えていなかった分野、考えていなかった環境に足を踏み入れることは決して簡単なことではない。葛藤が生まれるのです。チャレンジへの喜びや期待感を一気に飲み込んでしまう不安や恐れが生じるのです。それは人間として不自然なことではなく、自分の限界を示されるものであって、自分自身を守るために備えられた機能でもあるのです。

しかし、人は神様の前においていままで得てきた知識は技術が時に妨げとなりうると言うことを忘れてはいけないのです。神様が与えてくださったことを心のどこかで忘れてしまって、与えられたものに目や心を奪われて頼ってしまって、与えてくださった神様からのサインが見えなくなってしまう、聞こえ辛くなってしまうことがあります。恵と祝福のもとであれ神様が見えなくなってしまう。

私たち人はそれ位い弱い存在です。そう言う人をも神様は用いてくだり、福音を伝えようとするのです。私たちはそのことに気づき、私たちを用いてくださように神様に祈ることができるのです。今まで与えられた分野でなく、神様が導かれる私の人生においてその恵みが満ち溢れることを願い、祈ることができるのです。神様が私たちを導かれる時、聖霊を通して働かれます。わたしたちの固定概念から私たちを解放されます。今日のペテロのように今まで神様から与えられたものが、語られる神様の語りかけを聞こえ辛くしてしまっているのかもしれない。私たちは神様が聖書を通して示されるメッセージにもう一度心を向けてみましょう。神ことばを信じて頼る大切さと、柔軟さを今日もう一度考えてみましょう。それは正しく神様が私たちの内にイエスキリストが約束された聖霊の働きを通して私たち一人一人を作り変えられているのではないでしょうか。聖霊を通して助けられ、共に歩まれ、導かれていると言うことなんです。わたしたちは今日その語りかけに耳をすましてみようではありませんか。

祈り

天の父なる神様、

  • 今日もあなたの御名を讃美して、共に祈り、あなたの御言葉に心を向けるひと時をありがとうございます。
  • イエスキリストを通して約束されていた助け主、聖霊が私たちの日常に共に歩まれていることを感謝します。
  • 私たちが人生で迷う時、心弱る時に神の御言葉を教え、守りと導きを示してくださる聖霊をありがとうございます。
  • どんな時も、何においてもそこにあるあなたの思いを第一に求めて生きるものとさせてください。
  • わたしたち一人一人の日常にあなたの栄光が大いに現されますように。

主イエスキリストの御名によってお祈りします。

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