教会、礼拝、信仰は、人生に本当に必要か?
金知明牧師説教
ヘブル人への手紙11章1節
信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。(共同訳2018)
Ἔστιν δὲ πίστις ἐλπιζομένων ὑπόστασις,
Estin de pistis elpizomenon hypostasis,
is now faith of-what-is-hoped-for the-realization,
πραγμάτων ἔλεγχος οὐ βλεπομένων·
pragmaton elegchos ou blepomenon.
of-things the-proof not seen.
(W. Hall Harris III, The Lexham Greek-English Interlinear New Testament: SBL Edition (Bellingham, WA: Lexham Press, 2010))
要約
今日は、ヘブル人への手紙11章1節の言葉――「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」――からお話しします。テーマは少し大胆です。「教会、礼拝、信仰は人生に本当に必要でしょうか?」
実は私は、子どもの頃、教会に行くのが嫌になった時期がありました。お小遣い200円のうち100円を献金するのが惜しくて、「全部お菓子に使えたらいいのに」と本気で思っていました。日曜日くらい休みたい、そう感じたこともあります。だから、皆さんが「どうして教会に行くのだろう」と思うことがあっても、それは決して悪いことではありません。むしろ大切な問いです。
日曜礼拝を90分とすると、人生80年のうち礼拝に使う時間は1%にも満たないのです。99%以上は、礼拝以外の時間です。だからこそ大事なのは、教会に来る“量”ではなく、信仰の“質”です。食事も、食べること以上に何を食べるかが大切です。睡眠も、長さだけでなく質が大切です。信仰も同じです。
忙しい朝に家族の話に耳を傾けること。困っている同僚に一言声をかけること。地域の誰かを気にかけること。そこに信仰は生きます。イザヤ書は、荒れた廃墟を立て直す者と呼ばれる、と語ります。信仰には、壊れかけた関係や心を回復させる力があるのです。
教会は、立派な人の集まりではありません。私も完璧ではありません。ただ神様に用いられているだけです。辛い時こそ、イライラする時こそ、ここに来てください。共に支え合いましょう。
信仰は、人生の1%の時間だけのものではありません。日々の歩みの中で、心に御言葉を抱いて生きることです。喜びの時も、悩みの中でも、共に信仰を大切にして歩んでいきましょう。