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説教要約

イースター・メッセージ「まだ終わらない神の計画」

ルカによる福音書24:1-3 (金知明伝道師)

週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。 ところが、石が墓からころがしてあるので、 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。( 口語訳)

私たちは生活のいろんなことで希望がもてない事があるとその都度うんざりしてしまいます。料理レシピのタイトルに“美味しくないカレーライス”と書かれていたら、誰が完成を楽しみに料理を始めるでしょうか。あなたの大好きなチームが到底勝ち目のない大差で負けているスポーツの試合。試合終了時間が迫っていると、なおさらうんざりすると思います。将来、この子がどのように成長するかという楽しみがなければ、夜中に何度も起きてミルクをあげたり寝かしつけたりすることは出来ません。でもこれだったらどうでしょうか。“超一流シェフの味が家庭で再現できる㊙︎レシピ” “終了間際に大逆転するスポーツの試合” “出来ることがひとつひとつ増えていく子育て” いま目の前がどんな状況であれ、希望がもてるものに私たちの心はドキドキして、その時が来るのは今か今かと興奮するんです。

【信仰の焦点を失った弟子たち】
今日の聖書には、悲しくてショックでうんざりしている、これからに希望がもてないそんな人が出てきます。信頼し、慕っていた存在が死んでしまったんです。大切な存在を失った動揺を隠せないまま重い心で、最後まで仕えようとどこか無理をしていたでしょうか。それはイエス・キリストが十字架にかかり死なれて3日目の朝のことでした。

イエス・キリストの葬られた墓に真っ先に駆けつけた人にマグダラのマリアという女性がいました。彼女はイエス・キリストのただの知り合いではありませんでした。ルカの福音書8:2をみると彼女は、イエス・キリストに七つの悪霊を追い出してもらったことがあると記されています。それはそれは身体も心も苦しく辛い生活だったことでしょう。でもそんな彼女がイエス・キリストに出会い、救われました。人生が変えられました。辛くてもう耐えられなかった日々から、もう思い煩わされることのない自由な身へと解放されたのです。ルカの福音書8:1−3をみるとですね、癒されてから彼女は福音宣教のために働くイエス・キリストに仕えたとあります。そのようにしてマグダラのマリアはイエス・キリストと深く関わりのあった人でした。

そんな彼女が、朝早くイエス・キリストの墓の前に来た、その場面です。彼女はイエス・キリストの体に油である香料を塗るという自分の務めを果たそうと最後まで仕える姿勢でいたに違いありません。ヨハネの福音書20:11を見ますと、墓の中にイエス・キリストの身体が無いのを知り、マグダラのマリアが涙を流す様子が出てきます。この時、彼女だけではなくその場に駆けつけた弟子たちみんなが信仰の焦点を失い、絶望を感じていたことでしょう。

【生きている方をなぜ死人の中に捜すのですか】
しかし、そんな誰もが絶望的な場面の中で、空気は一変します。その場に現れた御使たちが不思議なことを言ったのです。「あなたたちは死んだ人間を葬る墓の中で、なぜ生きている方を捜すのですか?」「もうここにはいないですよ、よみがえられたんですよ。」「皆さんと一緒にいた頃に、主が話されていたことを思い出してくださいよ。」「人の子は必ず罪人たちの手に渡され、十字架につけられ、3日目によみがえると言われたでしょう。」

たとえ他の人らは忘れてしまっていたとしても弟子たちだけでも心に留めておくべきその約束は、本当に彼らの心に理解されていたのでしょうか。目の前で起きる出来事に弟子たちの心は掻き乱され、自分の心さえもコントロールできないそんな状況にあったのかも知れません。それは決して弟子たちに限ったことではありません。私たちも目の前で起きる様々な出来事の中で心が騒ぎます。しかし聖書は、そんな時こそ神に頼り、神に祈ることを教えています。私たちは、そこですべてが終わったかのように絶望に囚われてしまいます。問題が起きると明日が来ることも忘れてしまうほど悩み、希望を見出せなくなるのです。

【復活が意味するもの】
しかし、そうなることをすでに分かっていたかのように、聖書は今日も私たちに語ります。たとえ失望にあっても、その中で神のことばは輝くと。私たちが死んだと思っていたものを、生きている方を死人の中に探すなと言われる。神の計画はここが終わりなのではありません。ここを起点にまだ続いているのです。神は生きておられます。絶望からの大逆転の証人となるのは、まさに私たち一人一人なのです。あなたの人生の問題は、あなたの中ではすべてが終わった瞬間かも知れませんが、神様の計画の中ではそこを起点に神が働かれ、神の栄光が表される瞬間となるのです。

【まだ終わらない神の計画】
私たちはイエス・キリストに出会って終わりではありません。イエス・キリストを信じて終わりではありません。その先には私たちが想像できる範囲をはるかに越えた、私たちの人生に対する神の計画と導きがあります。あなたの人生に復活があり、大逆転があるんです。人の目には最悪の状況に見えるとしても、そこですべてが終わるのではありません。そこは神様には計画の途中です。私たちの力ではどうすることもできない状況の中にこそ、私たちの主イエス・キリストの力による勝利が表れようとしているのです。このことを神様は旧約聖書のあらゆる人、あらゆる状況を通して語り続けられました。そしてイエス・キリストの十字架と復活を通して今も私たちに語られています

マグダラのマリアと弟子たちは、自分たちが慕い仕えてきたイエス・キリストが十字架で死に、墓に葬られたとき、すべてが終わったと思ったかも知れません。以前にイエス・キリストが語られたことは虚しく朽ちていくものだと感じていたのかも知れません。すでに彼らの思いはそこが最終点として終着していたはずです。しかし、神様の計画はまだ終わりではなかったのです。

イエス・キリストの復活は私たちのこれからの人生を興奮させ、期待させるものです。この地上に人の姿として来られた神の独り子なるイエス・キリスト。私たちの罪を背負い十字架で死なれたイエス・キリスト。3日目に死からよみがえられたイエス・キリストをご存知でしょうか。そして復活された私たちの主なるイエス・キリストをご存知でしょうか。イエス・キリストはよみがえられた後、弟子たちに何度も姿を現されました。弟子たちが恐れ、理解できず、疑うことも承知だったでしょう。それでも、神のことばを語り、神の業を成し、救いを望みながら愛とみことばに生きました。

私たちの人生には恐れがあります。悲しみもあります。今日明日を生きながら、どうすればよいかわからないこともたくさんあります。イエス・キリストに近くいた弟子たちも同じように感じていました。そんな弟子たちの人生に、彼らの毎日毎日にイエス・キリストの十字架と復活があり、生きる力となっていたように、私たちがこの肉体を離れ、神のもとへ帰るその日まで神の愛と力は私たちの人生にあるのです。あなたが今感じている不安や恐れ、抱えている問題の中で希望を失っていたとしても、まだそこは人生の終点ではありません。まだ神様の計画は終わっていません。生きている神様があなたの人生にともに歩まれる。その愛と力を体験するのはあなた自身です。まだ終わらない神の計画の証人となるのはあなたです。

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