そろそろ、このシリーズをまとめなければなりません。
冒頭、第1話で、クリスチャンとは「キリストが私たちの罪のために死なれた」(Xristos apethanen uper ton hamartion emon)、と言うことを信じる者たち、と述べました。そして、罪の理解(行為・性質・力)がキリスト教の理解に必要と説明しました。
第6話で、神様がご自身に形どったものとして人間をお造りになったこと、
第8話で、罪とは人間がその創造者に背くということだと学びました。
第7話では、人間の背きに先立ち、天においてサタンの背きがあり、
第9話では、天使達の反乱によるネフィリムの発生、そして人間の更なる堕落、性質の増悪を見ました。
更に、第10話、バベルの塔の物語で、地上での人間の戦いを反映するような天における天使たちの戦い、地上とは違い神経戦みたいなものかも知れませんが、これが繰り広げられていることを 垣間見ました。
第3から5話は神様の人間の歴史への介入についてでした。
神様がその被造物に与えた自由意志は、神に似るために決定的に必要な性質・属性です。神様は、言わばロボットを作って、整然としているが、真の心の交流のない世界を創造したくなかったのでしょう。そして背きの危険を承知で、天の者たちを創り、地上に人間を創造されたのでしょう。
危険が現実となった訳ですが、その時に神様は遠大な救済の計画を立てられたのです。
その計画を完成させたのが、十字架上でのご自身・キリストの死です。
キリストの十字架上での死は、罪によって滅ぶべき私たちの身代わりにご自身がなられて、私たちを許されたことを意味します。また神様がこのような小さな私たちに確かに目を向けられ、愛してくださっていることを示すものです。そして悪の力を無力化し、これに打ち勝つ決定的な手段でした。
第2話は、どうしクリスチャンがこんな出来事を信じることができるのか、の話です。
他に方法はなかったのか。私には分かりませんが、宇宙の大きさを知れば知るほど、生命の精巧さ、宇宙生命の法則、悠久の時間、その相対性を知れば知るほと、自分の小ささを感じされられます。
自分はこのように理屈っぽく考える知恵、I.Q.はありますが、私よりもはるかにI.Q.の高い人も居ります。
しかし、人間のI.Q.の差は、全てを創造され存在があるとすれば、無に等しいです。人間と動物のI.Q.の差すらもそうです。こんなつまらない存在に、偉大なる創造者はいちいち構っておられわけがない、と思えるのです。
詩篇8篇3節から4節で、詩篇の著者は言います
詩篇8篇3-4節(口語訳聖書1955)
「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」
私も同感です。
ところが、詩篇の著者は5節6節で続けます。
詩篇8篇5-6節(口語訳聖書1955)
「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。」
このことを信じることができるのは、正に十字架の上で神・キリストが死の苦しみを味わってくださった、これ程までに神様は構っていらっしゃる、愛してくださっていることを示されたからです。
世界には色々な哲学・思想、宗教がありますが、私を納得させたのはこのことでした。
「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」使徒行伝4章12節
使徒行伝4章12節(口語訳聖書1955)
の言葉を持って閉じたいと思います。