礼拝説教

随時に説教要約を追加していきます(説教の全ては掲載いたしませんがご了承ください)。

カイザルのものは

ローマ時代の貨幣

ルカによる福音書の学び 第99講 20:19-26

 悪い農夫たちの譬え(前回)は自分たちにあてられたことと悟ったパリサイ人・律法学者たちは、イエス様をことばの罠にかけようと、「カイザル」か「神」かとイエス様に迫ります。しかし、日本の国で政治が政(まつりごと)からきているように、彼らこそ「神」を傘に被りつつ時の為政者を利用しているのでした。

 イエス様は、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と、いんちき宗教家が献金のため、集会出席のためと言い訳して社会に対して行うべき義務を放棄したり、自分達の利益のために政治を利用するような事を戒めています。又、神に対しては、目に見えるもの、朽ちて行くもので応えるのではなく、「神のもの」真の礼拝・隣人愛で応える事を教えます。


ミナのたとえ

忠実な僕と悪い僕

ルカによる福音書の学び 第94講 19:11-27

 おおよそ持っている者はなお与えられ、もたないものはもっているものまでも取り上げられる。」この箇所はしもべ達に与えられたミナ、他の福音書ではタレントと呼ばれるお金の単位からtalent = 才能と言う風に読まれ、才能の大小、あるなしと理解されることが多い。

 しかしここでは、イエス様に素直に応対した人達、信頼した人達と、そうでなかった人達のことを示していると言える。期待して一生懸命ついていった人達と、それに対して質問しているようでも揚げ足取りをするのが目的であったようなパリサイ人や律法学者のような姿勢の人々。これだけの差が出てきますよ、と教えています。


エリコの盲人

盲人の信仰

http://www.ocarm.org/lectio/anno_b/orb30eng.htmより

ルカによる福音書の学び 第92講 18:35-43

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。・・・ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」といった。・・・そこでイエスは言われた、「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」。・・・

 「あなたの信仰があなたを救った」というイエス様の言葉に注目したい。この盲人の信仰はどれほどのものだったのであろうか。ルカ7章1-10節に「・・・イエスはこれを聞いて非常に感心され、・・・これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない。・・・」といわしめた百卒長の信仰ほどにはこころを打つものではない。しかし、それでいい、小さな信仰でもいい。救いは神様から一方的に与えられるもの。私たちの側の信仰の大小などによるものではない。


永遠の命をうける者

イエスの招き

http://www.intheschoolofchrist.org/

より

ルカによる福音書の学び 第90講 18:18-30

 ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。イエスは言われた、「・・・いましめはあなとの知っている通りである、・・・」。すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。イエスは・・・言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けれやりなさい。・・・」。

 ここは何回読んでも理解できない箇所であった。全てを捨てる、自分に置き換えてみても出来ない相談である。しかし、理解の鍵は同じ内容の記録があるマタイによる福音書(19:16-30)の、その続き(20:1-16)にあった。天国を、朝早く、昼頃、午後、夕刻に雇った人々に同じ報酬を与えている主人に譬えている話である。救いというのは、永遠の命は、働きの量によらない、どれだけ献金したか、奉仕したか、働いたかなど、その量によるものではない。雇い主の裁量によって、一方的な恵みで与えられるもの。この恵み、恩寵が救いの本質である。なにもかも捨てろというのではない。それが私たちの救いの条件ではない。救いは神様から一方的に与えられるもの、いっさいは神様の恩寵である。



2011.05.22 更新