イエス・キリストがわたしたちに与える救いと希望
金知明牧師説教
ヘブル人への手紙9章14節
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血を、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。(新改訳2017)
まして、永遠の霊によってご自身を傷のない者として神に献げられたキリストの血は、私たちの良心を死んだ行いから清め、生ける神に仕える者としないでしょうか。(共同訳2018)
πόσῳ μᾶλλον
poso mallon
how-much more
τὸ αἷμα τοῦ Χριστοῦ,
to haima tou christou,
(will)the blood of Christ
ὃς διὰ πνεύματος αἰωνίου
os dia pneumatos aioniouwho
through Spirit (the)-eternal
ἑαυτὸν προσήνεγκεν ἄμωμον
eauton prosenegken amomon
himself offered without-blemish
τῷ θεῷ,
to Theo,
to God,
καθαριεῖ τὴν συνείδησιν ⸀ἡμῶν
kathariei ten sumeidesin emon
cleanse – conscience our
ἀπὸ νεκρῶν ἔργων
apo nekron ergon
from dead works
εἰς τὸ λατρεύειν θεῷ ζῶντι.
eis to latreuein Theo zonti.
– – to-serve God (the)-living
W. Hall Harris III, The Lexham Greek-English Interlinear New Testament: SBL Edition (Bellingham, WA: Lexham Press, 2010)
要約
日々の生活の中で、失敗や後悔は繰り返し起こる。「言わなければよかった」「こうしておけばよかった」——そうした思いが心に刺さって、立ち上がれないほど苦しくなる日もある。小さな出来事なのに深く傷ついてしまうこともある。けれど、それは特別な人だけの話ではなく、失敗と後悔は人生の“日常の現実”として誰の歩みにも入り込む。(賛美436番「十字架の地に」:失敗や罪を抱える現実の中で、十字架の赦しと清めに目を向けさせる)
その現実を一人で背負い続ける必要はない、という希望が十字架によって示される。十字架はただのシンボルではなく、イエス・キリストが罪も失敗も思い違いも、取り返せないと思ってしまう過ちも、そのすべてを担ってくださったしるしである。救いは努力や知識やお金、あるいは「十分になった」という実感から始まるのではなく、神様の一方的な愛から始まる。何ができなくてもよい。何が足りないと感じていてもよい。主が担ってくださる。
聖書はこう語る。キリストがご自身を神にささげてくださったその血が、良心を清め、死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者としてくださる(ヘブル9:14)。ここに救いの中心がある。主の十字架は人を新しくし、神に向かって生きる道を開く。
また、信仰にも「焦点が合わない日」がある。見え方が揺らぐ日、うまく理解できない日、受け入れられない日、心が追いつかない日。けれど、理解の深さや感じ方、状態によって神様の愛が増えたり減ったりすることはない。焦点が合わない時があっても、それでも愛されている。神様の愛は変わらない。(賛美436番「十字架の地に」:揺らぎの中でも、十字架に立ち返る視点を支える)
だから希望が生まれる。幸せの根拠は「状況が整ったから」ではなく、「救いが差し出されていること」「変わらず愛されていること」にある。
ただし、救いはゴールではなくスタートである。「救われた、よかった」で終わりではなく、そこから始まる歩みがある。神様の愛を自分だけのものにせず、家族へ、友人へ、地域へ——言葉だけではなく生き方を通して、その愛を分かち合っていく。(賛美531番「主こそわが」:救われた後の歩みと使命へ背中を押す)
礼拝は、この場所だけに閉じ込められるものではない。教会堂で集う時だけが礼拝ではなく、一人で聖書を開く時、祈る時、日常のただ中で神様と共に歩もうとする時、その一つ一つが礼拝である。(賛美466番「山路越えて」:日常の道のりを主と共に歩む視点を補完する)
十字架によって罪が赦され、新しい命をいただく。
その恵みが希望となる。
そして、その希望を持って歩んでいく。

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